思い出の昭和、そして上月町
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(第79話)校長先生の絵を描かされたのも先生のいいなり

<<2010.05.27記(2013.01.05一部修正)>>
足し算ができなかった思い出を綴ろうとしたのですが、その前に今から42年前の真実を語ろうと思います。

当時神戸新聞では、正確な題名は忘れましたが「私の学校の校長先生」的題名のシリーズが掲載されていました。
これは児童が自分が通っている小学校の校長先生の似顔絵を描いて、文章も混ぜてその校長先生の紹介をしているというようなものです。

さて、今から42年ほど前、私が上月小学校6年生のときでした。
授業中にいきなり某先生に職員室に来るよう呼ばれました。 授業中でしたよ、本当に。何事かいな・・・・と恐る恐る職員室に行きました。

そうすると先生方の机がコの字に並べられたその中に一対の机、椅子用意されていまして、そこに座らせられました。
そして担任のI先生だったか、他の先生だったかが私に鉛筆と紙を渡しました。
そして「校長先生の似顔絵を描け」とおっしゃる。

ワケが分からないまま、夢中で目の前に座っておられた校長先生の似顔絵を私の稚拙な技量で描き上げました。
数人の先生方が私を取り囲む格好での中でのことでしたから、たぶん私は耳たぶを真っ赤に染めながら必死だったと思います。

後日、放課後のこと、今度は図工室に呼ばれました。そこで職員室で描いた似顔絵を清書するように言われました。
鉛筆で描いたものの上をインクでなぞって清書したような記憶があります。
さらにあろうことか、誰が書いたのか分からない校長先生に対する思いを綴った紙を渡され、それを私の字で書けとまで言われました。
そこは子供のこと、ワケが分からないまま文章を、手渡された紙に自分の字で書き写しました。

そうです、あのとき神戸新聞のあのシリーズで採用された私の文章と似顔絵はこのようにして作成されたものだったのです!

あれは一体なんだったのだろう。

掲載されてから大分に経ってから私は担任のI先生から、神戸新聞から贈られてきたメダルを教室のみんなの前で手渡されました。

今から考えると私に白羽の矢を立てられた事自体はまあ、それもいいかな・・・とも思われなくも無いですが、それよりもその経緯自体に釈然としないものを感じます。
あのシリーズはそんな状況で続いたものだったのでしょうか?それとも個人的に応募されるのが普通であって、私の場合は学校の体裁の上で作れたものだったのでしょうか?
42年前という遙か昔の事ですが今だに私の心の中では、釈然としない、半分嫌な思い出として残っています。
以前に書いた、展覧会に出展するための絵が先生のいいなりだったこと、そしてこのような神戸新聞への投稿までが先生の思惑の上で仕組まれたこと・・・。
これらは今だに私の心のなかで言いようの無い、なんとも言えない嫌な思い出として残っているのです。
同級生のみんな、実はそのような事情の上での掲載だったのですよ。今だから打ち明けますが・・・・・
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