思い出の昭和、そして上月町
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(第78話)何もかも先生の言うとおり

<<2010.04.17記(2013.01.05一部修正)>>
私が小学5年生の時だったかと思うのだけど、1967年、その秋の事。
絵を描くのが好きだった私は図工の時間は大好き。特に写生だとか、とにかく絵を描く授業が好きでした。
10月30日は佐用姫神社(正確には佐用都比売神社でしょうか)の秋祭り。当時は露店も多く、人に揉まれ揉まれ進むというくらい賑やかなお祭りでした。
神社の氏子だけでなく、近隣の大人たちも押しかけていたし、私たち小学生も学校は半ドンで帰りました。

一旦学校から帰って、すぐに仲間と一緒にその佐用姫神社に行ったものでした。バスでいくやつ、歩いていくやつ、国鉄姫新線で行くやつ。
私は姫新線派でした。上月駅から一駅乗って佐用駅。
その佐用駅からウキウキと友達と佐用姫神社まで歩いて行ったのです。

学校が半ドンになるくらいのお祭りでした・・と言いたいのですが、建前はお祭りで半ドンにしてあったわけではないのです。
そう、建前はね。
実は同日の佐用小学校の体育館では、郡展が開かれていたので、それを見に行くために半ドンにしたというのが、半ドンの理由です、一応建前は。

郡展というのは、佐用郡内の小学生、中学生等の絵画、書道等の展覧会であり、一応教育の場であります。だから、郡内の学校は半ドンだったのです。
え〜え〜、お祭りがメインではありません、展覧会がメインです。くれぐれもその辺は誤解の無きよう・・・・・(^^)

最初に述べた通り、私は絵を描くことが大好きだったので、好きこそものの上手なれ・・・だったけか。その言葉通り、私の絵は毎年のように出展してもらっていました。

その小学校5年生のときの出展も私と後、5,6人選ばれていました。
そのときのことです。私は学校のやり口に子供ながらに情けなくて、出展したくないとまで言って泣きました。
それはなぜか・・・

出展用の絵を書いていた時のことです。M先生という女の先生が絵の描き方を全員に押し付けてくるのです。みんなで静物を描いていました。美術室で描かされていたのですが、ジュースの色の塗り方から、花瓶の色の塗り方まで逐一みんなに押し付けて、描かされるのです。子供ながらにそれが不思議でした。普段の絵を描いてそれを出してくれるのではないのか?と不審にも思いました。実際、それまでは授業中に描いた絵から選ばれていたと思うのです。
さて、ある日の土曜日のこと。家にいると「あんた、学校で絵を描かなあかんのとちがうんか?」と母親に指摘されたのです。
そうです、放課後はその先生の指導の元、静物を描くことになっていたのですが、私は行くのがいやで、頭を横にふりました。
半べそをかいて学校に戻ることを拒否したのです。
でもそこは親、強引な説得のうえ、私は例の美術室に行くことになりました。
行くとすでにみんな絵を描いています。
遅れて私も描き始めました。
一から十まで先生の言うとおりの描き方です。

さて、ジュースの色を塗る段になって私は勝手に色をつけてしまったのです。
するとすかさず隣にいたY子ちゃんが大きな声で「先生、〇〇君、勝手にジュースの色を塗ってまーす!」と御注進。
先生は目の色を変えて私の前に飛んできました。そこで大分に小言を言われたのです。

本当に嫌な展覧会出展のための絵画でした。結局私の絵は修正して出展したのかどうかまでは忘れてしまいましたが、あの嫌な時間だけは40年以上も経った今でも忘れることが出来ません。普段の図工の時間に絵画の手法を教えてもらうのは納得できるけど、綺麗で上手な?絵を出して学校のメンツ、先生のメンツを立てるかだけのために、自由な絵を書かせてくれなかったあの時間は苦痛以外の何者でもありませんでした。
今でもあのY子ちゃんの声が脳裏から離れません。そしてM先生、本当に熱心にありがとうございました!と言っておこう。
久しぶりに思い出した上月、昭和の思い出がこんな文章になってしまったのは残念ですが、お許しくださいませ。
次回は足し算ができなかった思い出を書こうと思います。しばらくは先生批判が続くかもしれません・・・・ごめんなさい。
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