思い出の昭和、そして上月町
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(第76話)牛窓という楽園

<<2009.08.08記(2013.01.05小修正)>>
私が小学5年生、10歳の夏。
1967年の夏のことだった。 ある日のこと、いきなり「牛窓のオッチャン」が迎えに行くから、遊びに来いと言っているという話をきいた。
そもそも人見知りが激しかった私は興味はあったが、うっとおしくもあった。
その「牛窓のオッチャン」というのは、それまで会ったこともない。第一、そんなところに親戚があるということも知らなかった。
とにかく、「家の玄関を出たら道で、その道を横切るともうそこは海」という環境だから、来いという。
果たして、夏休みのある日のこと、そのオッチャンはブルーバードのバンで迎えに来てくれました。
当時は国道ではなかったであろう現在の国道373号線を上郡まで・・・・
その後、オッチャンは上郡駅西側の踏切を「なまず峠」経由で国道2号線に出たかったみたいだが、その踏切を渡らずにそのまま西へ西へ・・・・船坂近辺まで行ってしまった。
道端で道を尋ねてもとの踏切まで戻ってから2国に出たと思う。
何せ、当時の私は自動車に乗ってどこかに行くということ自体、めったにあることではない。だから当時のことは大変よく覚えているのだ。
2国をびゅんびゅん飛ばして長船まで。
そしてその長船にあった「ドライブイン」で昼食をとった。私は焼き飯を食べたと思う。
外食すらめったにする環境ではなかったので、これも大変によく覚えている。
皿に残ったわずかな飯がスプーンで掬えない・・・という経験をして、後は南下して牛窓まで・・・・
さて、田舎モノの私が体験したその牛窓での3日間。(たぶん3日間だと思っているだけで、本当は何日滞在したのかは覚えていない)
上月町という山の中の生活と、決して都会とまでは言わないが、牛窓という浜の生活の違いに驚きながら、夢のような日が過ぎていったのだ。

さてさて、牛窓の裏側(北側)から神社の下を通って表側(南側、浜側)に車は回り込んだとたん、私はそのせまい道いっぱいに人が溢れているのに驚き、そして家についてから海パンに着替え、早速海に飛び込みました。
幸いなことにそこには私より一つか二つ上のオニーサンがいてたので、よく遊んでもらったりして、人見知りの私はすぐに打ち解けることができました。
そして夜には港祭りがあり、花火あり、ステージではエレキバンドが出演していた。たぶん町のアマチュアだろうけど、当時ではエレキバンドと呼ぶのがピッタシであります。
そしてのど自慢などもあり、大変ににぎやかでありました。
翌日は海上自衛隊の船(巡洋艦というのか、なんと言うのかはまったく知りません)内部の無料見学会とか・・・・
昼はオリーブ園で昼飯を食べさせてもらったり、そこではじめてのジュークボックスを体験したり・・・・(本当に田舎モノでした)
さらに港まつり(?)に合わせてか、どうかは知らないが競艇用ボートも浜に運ばれてきていた。
操縦席(?)の前にもう一つ穴がくり貫かれていて、そこに乗せてもらって試験航行
急ごしらえのその穴にはまともに体をサポートするものなんてなかった。
なので、波の上をハイスピードで走らすとパシャ、パシャという感じで飛ぶ(?)ので、そのショックによる背中の痛さったらなかった。

さらにさらにいろいろなことが夢のように起きて夢のように過ぎていきました。
さらに驚くべきことに!
在阪のテレビが映っていることでした。瀬戸内海を渡ってくる大阪の放送電波と、西からの岡山の放送局からの電波とを壁に付けられた切り替えスイッチで切り替えて、在阪、山陽のテレビを視ることができるという地の利に大いに感心したことでした。
当時の上月では西日本放送、山陽放送、NHK教育、NHK総合しか視る事ができていなかったのですから、大変に驚くべきことでした。
それやこれやで大変なカルチャーショックを受けた小学5年生でした。
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