思い出の昭和、そして上月町
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(第73話)私の音楽史、昭和編その2

<<2009.03.26記(2013.01.05少修正)>>
第六話で音楽が好きになったきっかけを書いたが、その終わりのほうで、ジャンルを問わずに何でも聞いてやろう精神について述べている。
本当にそのとおりであり、今でもクラシック、ジャズ、ワールドミュージック、60年代ポップス等何でも聴いている。さらに最近では戦後の懐メロまで手を出している。「あかいーリンゴにくちびーるよせてー」という出だしで始まる「りんごの唄 並木路子」なんて本当に大好きだ。
さらに「かえり船 田端義夫」とか「若いおまわりさん」なども大好きだ。特に「若いおまわりさん」の歌詞に出てくる「今なら間にあう終列車〜」なんて言うフレーズなんて涙がちょちょぎれるのであります。
これは確か二番の歌詞だったと思うが、要するに家出をしてきたと思われる娘さんに「国じゃ父さん母さん達が死ぬほど心配してるだろ」と言い聞かせて、駅まで送ろうなどと親切に言い、そして歌詞の結びがこの「今なら間にあう終列車〜」なのであります。
本当にすばらしい歌詞であります。
そういえば純朴な彼を歌った「愛ちゃんはお嫁に」も良いなあ・・・・・
私が生まれていたころのヒット曲なのかどうかは知らないが、まだ私が音楽に目覚めていない子供のころの記憶に残っている部分があるのです。
最近の若い子のたちのポップスもなかなかすばらしいものがあったりするのですが、やはり我々50歳を過ぎたおっちゃんになると懐古趣味だけど、じっくり歌詞に感動するもの方が勝つのですね。
前に述べたかも知れませんが、テレビが我が家に来る前にはラジオしかなかったのです。それも5球スーパーラジオであります。我が家にあったのはナショナルブランドの5球スーパーでした。5球とは言え、回路の構成が5球スーパーと言うだけで、実際には整流管は使われてなく、当時はすでにセレンによる整流でしたので、真空管使用数としては4球でした。高周波、低周波用の回路構成はたしかに5球スーパーですけどね。
しかも当時は電気式ピックアップ付レコードプレーヤのアンプとして使用できるように、外部入力端子がついていたように思います。
さらにこのラジオは2バンドでした。中波と短波の受信が出来たのです。
そしてテレビというものが我が家に入ったとたん、このラジオを聴く家族は居なくなり、小学生であった私専用ともいえる状況になったのは嬉しかった。 学校から帰るとすぐに毎日放送ラジオをかけました。当時はグアムグアムリクエストとかなんとか言う放送があり、当時のヒット曲をよく聴いたものです。
小学5年から6年の頃は「グループサウンズ」という、なんともはや、今考えると非常に野暮ったい呼び名ではありますがそのグループサウンズというのが全盛でした。
そのグループサウンズ全盛の中でソロで歌う「いしだあゆみ」の「太陽は泣いている」というのが、ラジオでよくかかっていたのも記憶している。
彼女はその後、ブルーライト・ヨコハマなどで大ブレイクするのだけど・・・・・
そのうち私自身もテレビに揺れ動いてしまい、ラジオを聴くチャンスも少し薄れました。しかし第6話で述べたように、中学1年になろうかというそのときにお袋に買ってもらった三菱電機製の6石トランジスターラジオがまたも僕をラジオの世界に引きずり込んでくれたのです。
そして改めて音楽大好き人間に育ててくれたのです。
いまでもラジオは大好きです。音質は悪くてもAM中波なんて大好きなのです。
さて、私にとっての当時の音楽ソースは中波ラジオ、テレビの音楽番組だったわけですが、その後レコードというものが大きな比重を占めるようになったのです。
このレコードの音質というものは再生装置が貧相でも、当時の中波ラジオの比でも、当時のお粗末なテレビの音の比ではなく、すばらしかった。
次回はこのレコードについて、まじめに語ってみたいと思います。私の音楽史、昭和編その3をお楽しみに!!!!!!
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