思い出の昭和、そして上月町
●検索サイト等、他のリンクをたどってこのページに直接こられた方はココをクリックしてください。

(第67話)村で一番の耕運機

<<2008.09.26記>>
親父に聞いた話・・・・・
私が5歳か6歳か、いやちがう、小学生の低学年のころだ。
ドンドンドン!と表の戸をたたく音で目がさめた両親。
それこそ久しぶりの朝寝の時間。
昔の人はよく働いていたが、その日は本当にたまたま朝寝ができる日だったらしい。
「だれや、こないな朝に・・・」と戸を開けると、「お宅の牛は大丈夫でっか?」と訊く男がいたそうな。
「誰じゃ?」と親父が問えば刑事だと言う。そしてその刑事が
「実はYさんとこの牛が盗まれている。あんたんとこはどうだ?」と訊いたらしい。
「うちの牛はちゃんと居るわい」と親父。それでもと牛の様子を見に裏手の牛屋をみてみると・・・・・
「ありゃー?!居らん!!」
そうです、我が家の牛も盗られてしまったようです。
・・・・・・
後日、なんやうちの牛は京都にいるということがわかったらしい。
で、親父は「ジープ」に乗せてもらって京都まで行ったらしい。
しかし、盗品とはしらないで買った第三者の手に渡っていたので、買い戻す必要があったそうな。私はそんな理屈はわからないが、そういうことだったらしい。
「そんなら、もういらん・・・・」と親父はあきらめて帰ってきたらしい。

でも田んぼを耕すには牛がいる。しかし改めて買いなおすよりも、耕運機という機械が出回り始めているのに気がいったらしい。
私の祖父は大反対したらしいし、それに田舎のこと、かなり陰口も言われたらしい。
「あないな機械で鋤いても、浅いさかいろくに米はとれんぞ・・・・・云々」
しかし、思い切ってその耕運機という機械を買った。その機械はサトーというメーカーのものだったと記憶している。違ったかな・・・・・
エンジンは灯油で回るものであった。最初はガソリンで点火する。そしてエンジンがあったまってきた様子を見ながら、徐々に灯油に切り替えていく・・・というものであった。
私が小学高学年になったころには、私自身がそれを使って田んぼを耕したものである。
それを買ったころはまだまだ周りの家々は牛で耕していたのだ。
で、親父は午後7時半ごろに姫路の工場から帰ってきてから、おもむろに耕運機の後ろに車をくっつけて出て行っていた。
賃鋤きに行っていたのである。
本当に昔の人はよく働いたものである。今は合併して佐用郡は佐用町という一町になってしまったが、昔は三日月町、南光町、佐用町、そして我が上月町で佐用郡はなりたっていたのだ。その当時の佐用町まで賃鋤きに行っていたらしい。
本当に昔の人はよく働いたものだと、今こうして40年以上も経つのに思い出している。
そんな親父も今年の2月に亡くなった。享年85歳であった。
私はその後を当時の作っていた面積の1/3の田んぼで恵まれた機械を使って、「あーしんど」と言いながら米を作っているのだから、何をかいわんやである。
当時は農業機械と言えばこの耕運機、それこそ小さい小さい耕運機だけであった。
田植えも稲刈りも、脱穀も、草刈りも人間の手でやっていた時代である。

牛を盗られたというのをきっかけに村で一番、いやまだ町内でも珍しかったであろう時代に耕運機を買って、あげくに陰口まで言われていたのだが、そのうちにだんだんと普及し始めて、あっという間に村中が耕運機になってしまっていたのが面白い。
やはり、あーだこうだと言っていても、楽なものに越したことは無い・・・ということか。
All rights reserved by AL-Works
kozuki-town Sayo-gun Hyogo-pref. Japan