思い出の昭和、そして上月町
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(第64話)初めて見たコピー機

<<2008.06.15記>>
いまや、当たり前のように使っているコピー機ですが、私が初めて今のような乾式(?)のものを見たのが中学1年生の秋だったと思う。
1969年のこと。
近所の今は亡きHちゃんが「今日、佐用高校で文化祭があるんやで、みにいかへんか?」と誘いに来てくれたことに端を発っします。
自転車にのって出かけたのでありますが、でもまあ行ってよかったと思った。残念ながら私がその後通ったのは佐用高校では無かったので、本当に秋だったのか(つまり、現在のトウリョウサイと呼ばれているのはどうも初夏のころにやっているみたいだから)、そのとき体育館で演奏していたのは、軽音楽部というひとくくりてき名称でよいのかどうかわからないのですが、あえて軽音楽部という名前で書かせていただきます。
その軽音楽部は当時大ヒットしていた「マンチェスターとリバプール」という曲を演奏していたのを覚えている。それが聴けたのがうれしかった。
またどこの教室で何をテーマにした場所だったのか、覚えていないのですが、そこでは初めてのコピー機、そしてなんとシャープの「コンペット」と呼ばれる卓上電子計算機も初めてみたのであります。
この「コンペット」という今では考えられないくらいに重い(20Kg前後?)もので、数字の表示もなんともいえない雰囲気をかもしていたと思う。もちろん当時の私は知らなかったが、この真空管を使った表示は「ニキシー管」と呼ばれるものである。
大学に入ってまたこの「コンペット」に泣かされることになるとは露と思わなかった。
この大学時代の話はまた後日m(_ _)m
さて、そのコピー機ですが今でもこういったコピー機を「ゼロックス」と呼んでいる人があるくらい、会社名、またはブランドがそういった機種全体に呼ばれるくらい、大ヒットしのものであります。
まあ、50CC原動機つき自転車のどれをみても「カブ」という本田の機種名で呼んでしまうのと同じですね。我が家のお袋(84歳)は今でもワンボックスを見ると「ボンゴ」と言っちゃいますものね。
さてさて、そのコピー機ですが、作動するところをみると、現行読み取りするする上面ふたの隙間から強烈な光がでているのがわかった。まず、当時の僕はこれだけで怖い。その怖い部分に手のひらを乗せてデモンストレーションをしているのが信じられなかった。手がおかしくなるのではないか?と本気で心配しました。
また、お札のコピーもデモンストレーションしていたなあ・・・・、のどかな時代であります(^^)。そんなことで目くじらをいちいち立てることも無い平和な時代だったんですね。
この乾式複写機ですが、やはり個人商店とか零細な企業ではまだまだ導入できるという代物でもなかったのではないでしょうか。
つまりリースという概念が発生していなかった?または浸透していなかった?
そういえば、高校生になったときに、家が自動車販売・修理を生業にしている会社の息子が同級生にいたが、試験前になると要点を抑えてまとめてある資料を、コピーしてくれた。そのコピーは湿式だった。それからまだ何年か経って、現在の会社に入ったころ、かなりの零細な会社であったのだが、やはりまだその湿式があった。
まあ、さすがにすぐに乾式に変わったけど、でもしつこくその湿式も生き延びていたのだろうと思う。
資料をめくると、いまでも図面のコピーには絶大な人気をあるとかないとか書いてある。
このコピー機ですが、僕が勤めている小さな会社ですら今や、コピー、プリンター複合機あり、両面コピーさえできてしまうものになっている。しかもちゃんとLAN経由で印刷できるようにプリントサーバーも設置している。
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