思い出の昭和、そして上月町
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(第52話)シンナー

<<2007.5.4記>>
昭和30年代はブリキのおもちゃに代わって合成樹脂によるおもちゃが、大きく台頭してきた時代だと思います。実際に私は小学生低学年の頃、再々このページに登場する近所のオニーサンが、ジープという車のプラモデルを初めて見せてくれたのを覚えています。その後、自分でもプラモデルを作ることに喜びを覚え、友達同士でも結構遊んでいました。その中でもお気に入りは、有線のリモコンで動く戦車でした。左右のキャタピラを逆に、つまり右側のキャタピラを前進に、そして左側のキャタピラを後進に動くように操作すると、ホンマもんのようにその場で方向転換するその姿に惚れ惚れしたものです。そして、コタツにはいったまま、コタツ布団の上をノシノシと登らせると気分はもう戦闘態勢であります。
そうなってくると、今度は作品に色を塗りたくなります。しかし小遣いの乏しい貧乏人の息子は、プラカラーなどというものは中々買えません。
しかし、昭和43年か44年ごろだったと思うのですが、友人のY君とわずかばかりの小遣いを握り締め、旧佐用町の新免教材という店に行って、最低限度の赤、黒、青程度のプラカラーと、その薄め液を買ったときはうれしかったなあ・・・
で、大事にその物を持って上月に帰るべく佐用駅に向かい、そこでベンチに座って汽車がくるのを待っていました。駅舎においてあるテレビでは「東大安田講堂」での学生運動のニュースを流していたのを覚えています。
と、そのときです。私は突然「あっ!!シンナーを買うのを忘れた!!」と大きな声で言ってしまったのです。シンナー遊びが既に世間ではニュースネタになっていたので、周りの大人が一斉に私の方を「なんじゃ、この子は????」という顔で見たことを覚えています。
あちゃ、なんと悪いタイミングで大きな声を・・・と思いまして少しバツが悪かったです。でも当時、子供ながらにもシンナー遊びで遊ぶような悪い子にはみえへんやろ?と言う気もって慌てることはありませんでした。
友人「その薄め液がそなんとちゃうん?」と言ったので、「あ、そうか・・」とつぶやいた私がそこにいました。(汗;
プラカラーさえ、満足に買えませんでしたが、プラモデル自体はなぜかそこそこ買えていたので不思議です。なぜか友達の間でもそれほどの不自由はしていなかったように思います。
しかし、一つ言えるのは「習字」の月謝が「サンダーバード2号」に化けてしまったことがあります。
一ヵ月後、お母ちゃんにめちゃくちゃ怒られたのは言うまでもありません。また、子供貯金にもっていかされた500円から300円ほどをくすねたこともあります。これももちろん一ヵ月後に怒られることになりました。でもまあ、何とかかんとか親金をくすねたり(?)、月謝をくすねたりしながら、当時ブームだった(もちろん現在でも根強いファンがいらっしゃいます)プラモデルをつくり、そして数少ない色数しかもっていないプラカラーをシンナーで調整しながら塗っていたあの頃を思い出すのであります。
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