思い出の昭和、そして上月町 |
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(第23話)道現在では流石に179号線とは言え国道ですから舗装は完全舗装です。私が幼かった頃、まだ県道といっていたような気がします。もちろん舗装なんかされていません。 しかし上月の駅前あたりからは佐用まで簡易舗装がされていたと思います。この簡易舗装がくせものでした。何せ土の道の上にコールタールを塗りつけてだけのようなものですから、夏場の炎天下では融けてしまって靴の裏に「びちゃー」とコールタールがついた感じ、いや確かに融けていましたから付いたのではないでしょうか。しかも独特のにおいもしました。私の家の前なんかは簡易舗装すらされていませんでした。ですから雨の後などでは道に穴ぼこができていたのです。それを修復するために「道削り」などと呼ばれる車両が出てきて、巨大なナイフのような刃先で道の上っ面を削っていくのです。 「いつバックするか分からんから決して後ろを付いて歩かないように」という注意は学校からいつもされていました。上級生も同じ事を言って我々低学年を戒めていました。しかし、やはりついて行くんですな、これが。 ガリガリと音を立てながらゆっくりゆっくりと進んでいく道削りという車両。 しかし私が小学6年生になった辺りから家の前の道を含めて画期的に良くなっていきました。 既に国道179号線と呼ばれていて、簡易舗装ではなく本舗装であり、まぶたにまぶしいくらいの白線が路肩、センターラインとしてひかれました。当時としてはものすごく立派な道に見えました。 力万の現在の道ができたのもその頃だったと思いますし、岡山県境の峠に通じる道が広く、現在のルートになったのもその頃のはずです。 道が立派になり、車が普及するにつれ目に見えて姫新線の利用客が減り始めたのもその頃からではないでしょうか。 世の中、発展発展と言いますが、何をもって発展というのでしょうか? その裏で消えていくものもありますし、将来の子孫を真綿で苦しめるような環境汚染の元も特にその頃から始まったのではないでしょうか・・・・。 <<2005.10.02記>> |
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