思い出の昭和、そして上月町
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(第7話)テレビがやってきた日

本当に人間にとって幸せなことなのか、本当は不幸のはじまりなのか?私が幼かった頃からドンドンと家電製品が家庭に入ってきました。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機、蛍光灯、ガス、ステレオ、炊飯器などなど、現在普通に家庭にある電化製品は、私が5歳あたりから中学生までの間に揃ってきたものばかりです。
東京オリンピックの前年かそのもう一年前くらいに、我が家に白黒テレビがはいってきました。私の住む上月町はかなり山間部の町であり、在阪の放送局を受信するということは絶対的に無理でした。そこで、山頂にアンテナをあげると、岡山県のNHK総合と教育、山陽放送、それから高松市の西日本放送の4局がなんとか受信できるということが分かりましたので、共聴アンテナをあげることになったみたいです。
当時はVHF帯のみの放送であり、山陽放送は11チャネル、西日本放送は9チャネルでした。ちなみに当時はチャンネルと言っていましたが、最近はアメリカ英語をカタカナになおすとチャネルと聞こえるみたいで、現在ではチャネルと表記することが多くなりましたよね。
当時は、とにかく映らなければいけないというのが最優先だったのか、とりあえず300オームの平行フィーダで山から下ろしてきて(いわゆる仮工事)、最初の家にブースターと遮断機をつけました。その後も各家まではやはり平行フィーダで配信しました。
ですから、雨でも降った日にはフィーダ中の電波が減衰してしまって全くテレビが映りませんでした。しかし何とか最初の2から3軒の家までは、かなり酷い状態ではありましたが、なんとか映ってはいたようです。ですので、力道山が出るプロレスの放送時間になっても、雨が降っていて映らないときは、最初の2から3軒の家にまで見せてもらいに行ったものです。今となっては本当に嘘のような話ですが・・・・。
それから後、75オームの同軸ケーブル(本工事にて)での配信に変わりましたので、雨が降っても大丈夫なようになりました。
さらに20-25年ほど前から在阪民放局のUHF中継局ができたりしまして、関西にて見れる地上波全てが受信できる状態にはなっています。
<<2005.07.30記>>
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