思い出の昭和、そして上月町
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(第5話)カラーテレビがやってきた

私が初めてカラーテレビを見たのは、小学6年の修学旅行(京都・奈良)の旅館のロビーででした。今でも忘れられません、あのシーンは。それは何かと言いますと、当時大人気だった「ザ・タイガース」のメインボーカルであった「沢田研二」が明治のチョコレートのコマーシャルをやっていたのです。「チョコレートはめ・い・じ!」と最後に右手にチョコレートを耳の高さ辺りに掲げてポーズとなるものでした。そのときの背景が真っ青だったのが今でも忘れられません。
そのつぎ見たのは岡山の牛窓に住む親戚の家でした。「夜のヒットスタジオ」だったのかな、番組名は忘れてしまいましたが、オープニングタイトルのところで、各色のモップみたいなのをもった女性数人(?)が床に色を付けていくのです。いかにもこの放送はカラーですよ!とアピールしていたかのようでした。そこで、憧れの「ザ・タイガース」、「ザ・テンプターズ」、「ザ・スパイダース」とかをカラーで見ました。
しかし、そのころの同級生の女子たちは「***ちゃんちで夕べもタイガースをカラーでみた」とか言っていた。その***ちゃんちは小さいながらも工場を経営している家でしたので、さもありなん・・・です。ちょっとうらやましかったです。
さて、普段から白黒テレビをみていた我が家にもカラーテレビがやってくる日が来ました。
それは私が中学1年生の年の暮れのことでした。さあ寝ようとした夜中の10時ごろ、近所のT電器屋さんがテレビを運んできました。大体がこの電器屋の主人は夜中に配達してくるので有名な方でした。その10時に大変に重い真空管式のカラーテレビをもってきたものですから、電器屋の主人と私と父親の3人がかりで居間に運び込みました。結線のあとスイッチオン!!
ところが肝心のカラー放送が無い!!まつことしばらくして今となっては伝説の「11PM」がはじまりました。さすがにこの放送はカラーでした(たぶん・・、いや他の番組だったかな・・・、怪しい記憶です)。やっと我が家でカラー受信ができた瞬間でした。
さて翌朝のこと、学校に行くまでの少しの間にカラー放送をみるべくテレビをつけたのですが、どのチャネルを回してもカラー放送に出くわしませんでした。
そのくらい、当時はまだカラー放送が少なかったのです。その証拠に当時のカラー放送番組では画面の右下に、ときどき「カラー」とインポーズが入っていたくらいですから・・・・・

村で一番に導入したカラーテレビですから村で話題にならないはずもなく、何人かの人たちが「見せてくれ」とおいでになりました。
その中の一人に面白いことを言った人が居られました。すでにお亡くなりになっていますが、Y君ちの「祖父」がおいでになって、当時人気だったプロレスを見て一言。
あ、そのまえに知っていておいて欲しいのですが当方の家をはじめにどこの家でも見ていたテレビのサイズは14から16インチの白黒画面であり、当時我が家に来たテレビは19インチだったという布石があります。
さて、そのY君ちの「祖父」の第一声。「おー、やっぱり19インチはええなあ・・・。リングの外までようさん見える」
いやあ、おじいさん、見える範囲はいっしょですって。
<<2005.07.28記>>
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